どうでもいい話なんですけどね…


まんが道
 
大学に通いながら、子供の頃からの夢であった漫画家を目指して本格的に漫画の投稿を始める。各雑誌で新人育成のための賞レースが設けられており、秋田書店・少年チャンピオン誌で小さな賞をもらう。その後も各誌への投稿を続け、少年画報社・少年キング誌に投稿作品が採用される。短編読み切りや次号予告用の4コマなど…様々な仕事をいただき、漫画家生活がスタート。掲載されるたびに名前の級数が上がっていくのを実感して喜んでいたが、突如、少年キング休刊(泣)。まさに一寸先は闇だ。
(とはいえ、素人に毛が生えた程度の私ごときに本当に良くしていただきました。少年画報社には感謝の言葉しかありません。ありがとうございました)
 

漫画家を断念

フラフラもしておれず、漫画の道を断念。やっと出逢えた「やまとなでしこ」との結婚を目標に職探し。ただ、何かクリエイティブな仕事に就きたいというザクッとした目標があり、グラフィックデザイナーを目指し、産経新聞をメイン媒体としていた全国に支社を持つ広告会社(今はもうない草)に就職。
当時は印刷物制作は、台紙に写真のアタリ用コピーや写植文字をカッターとピンセットを駆使しながら切り貼りして作っていた時代。刷毛で塗っていた糊や後のスプレー糊が懐かしい…。
そんな時、DTP(Desk Top Publishing)という新しい波が押し寄せてきた。会社でもDTP導入による内製化を進めていくため、全国の支社からいくつかをピックアップ。勤務していた神戸支社もその中のひとつに選ばれた。
 

Macとの出会いと阪神淡路大震災

DTP制作部門の立ち上げに携わり、DTP専用のマシンかMacintoshのどちらかを選ぶこととなった。ズブの素人でありながら、その汎用性の豊かさ(簡単な話、絵も描けそう…という個人的な理由が大)とこの機械を使えば、いつか自分で仕事ができるのではないか…といった漠然とした思い(ほぼ妄想)だけで、Macintosh(たしかQuadra840AVでOSは漢字Talk7だったなぁ)を選択。(当時、モノクロのディスプレイが80万円ほど、フォント1書体が8万円ほどで計5書体購入してもらう。Macintoshの「マ」の字も知らない社員に総額300万円ほどの機材一式を揃えて託してくれた会社もスゴイ…)これが、その後の人生を形作るきっかけとなった。

当時は媒体が新聞であったこともあり、作るものはモノクロ広告一辺倒。自宅でも「Macintosh LC575」を手に入れ、少しずつカラーの勉強を始めるにつれ、次第にカラー広告への思いが募っていく…。

3年勤めた後、新規Mac部門立ち上げとカラー印刷物制作者を探していた神戸市内の印刷会社へと転職。腰の座らん軽薄な奴だと思われるでしょうが、一つの会社ではスキルアップできない時代でしたし、発展のスピードも速く、個人でその波に乗るのは資金面で無理。Mac環境の進んだ会社で技術を手に入れねばならない時代でした。(これぞCC-Styleです!)
先の会社と同じようにMac制作部門の立ち上げをするも、面接時の話とは違う薄給が続き、生活もままならず(当時お昼は300円でおさまるよう、パンと牛乳のセットか立ち食いそばのローテーション…草)。
そんな折、大阪・読売本社ビル内の広告代理店がMac制作者を募集しているのを知り、すぐ応募。年末に採用が決まり、出社は年が明けた17日に決まる。やったー!

新しい会社への初出社の早朝になんと阪神淡路大震災が襲う。明石にある自宅は家具が倒れグッチャグチャ状態。家族の誰もケガがなかったことに感謝。さらにJRや私鉄の交通機関はズタボロ。
出社できず、困り果てたが会社が気を使ってくれ、2週間ほど自宅待機。(転職した矢先であり、貯金も少なく、生活費の心配があったが、そこは大手の代理店…その間の基本給、通勤定期代まできちんとみてくれました。社長様、本当にありがとうございました。だからというわけではなく、いつも笑顔を絶やさぬ素晴らしい社長でした)

その後、少しずつ交通機関が動き出し、ようやく初出社。
なんとか動いている交通機関を乗り継いでの出社であったため、会社の温情で当面は12時〜15時までの3時間勤務としてくれた。
交通機関が全面復旧となるまでの何ヶ月かは、明石から大阪までは動いている電車とバスを乗り継ぎ(途中何kmもの徒歩区間もあった)、通常の3〜4倍ほど時間がかかる通勤であった。毎朝、須磨〜長田〜三ノ宮〜芦屋〜西宮の倒れたビルや家屋を横目に通勤。心が痛い日々でもあった。
 

経験を活かし独立

新たな職場でのDTP環境をさらに向上させるため、頼りになる相棒デザイナーやキレのあるライターとともに制作部内の作業効率化を任される。当時はまだ読売本社側にもデータ納品の受け入れ体制がなく、紙焼きやフィルムを作っての納品であった。そのため、出力センターとの連携などにも注力。
制作部の個性豊かな仲間や気のいい営業マンたちが集う好環境(それまでの会社は営業と制作は相容れないほぼ敵対関係でしたから…)の中、様々な種類の広告制作やイベント等の仕事を経験させていただく。(すばらしい会社と魅力あふれる仲間たちに感謝)
その頃、並行して、副業として受けていたHP制作の受注が相次ぐ。あれよあれよという間に、正業より稼ぎが多くなっていく(もちろん一時的なものであった…笑)。
そんなこんなで、職場と自宅での仕事で忙しい毎日であった。が、独立に向けて、様々な機材を揃えつつ、一人でやっていくための気持ちを整理する大事な時間が過ごせた。
ちなみに当時のMacは互換機と呼ばれるものが存在しており、PioneerやPowerComputing、UMAXといった会社のマシンが出ていました。当然Apple製品よりも安く、結構使えたので、PowerComputingやUMAXのマシンで自宅では仕事していました。いい時代でした。懐かしいー。

そして、1999年に正式に独立。デザイン事務所“Crazy Company”を立ち上げる。周りの人達のおかげで、仕事も徐々に動き出す。その後、会報誌の編集・取材・撮影・企画〜各種印刷物デザイン、WEBデザインを中心に、イラストにもチカラを入れ、エステティック関連や銀行系・受験生支援等々の冊子等の扉絵を担当。
山あり谷ありで現在に至る。(人生プラマイゼロ。しんどい後にはきっと良いこともあるさ。自然体で楽しく生きよっと♪)